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歴史的人物解説

近松門左衛門(1653〜1724)
近松門左衛門肖像画

イラスト:©栗原裕美子
江戸時代の浄瑠璃作家。「作者の氏神」(『今昔操年代記』より)と評される。

近松門左衛門は、1653年、福井県・越前吉江藩の杉森信義の5人兄弟の次男として生まれました(山口県・長門出生説もあり)。幼名は次郎吉。

12〜15歳のころ、父の信義が浪人となり、一家をあげて京都に移り住みました。そして、20歳頃には公家の一条禅閤恵観(いちじょうぜんこうえかん)に奉公をし、その後複数の公家に仕えたようです。恵観は大の人形浄瑠璃好きで、近松は公家奉公を通じて、浄瑠璃に触れていったものと考えられています。当時京の都では、四条河原を中心に芸能の興行が盛んに行われていました。芝居の世界は蔑まれる傾向があったのですが、近松は次第に芝居の世界に魅了されていきました。

1675年に旗揚げした宇治座の浄瑠璃語り、宇治嘉太夫のもとへ近松は作者見習いとして飛び込みます。そして、20歳台後半には浄瑠璃作品を執筆し始めたと考えられています。確実に近松が浄瑠璃を書き上げたのは、1683年の31歳のとき。曽我兄弟の仇討ち後に、兄弟の愛人と郎党が、兄弟を侮辱した悪人を討つという時代浄瑠璃、『世継曽我』(よつぎそが)がその作品です。この作品は非常に好評になり、近松は浄瑠璃作家としてひとり立ちをします。

1684年に興行師の竹屋庄兵衛と組んで竹本座を旗揚げをした竹本義太夫が、近松に浄瑠璃の執筆を依頼。近松は『出世景清』(しゅっせかげきよ)を書き上げ、一躍世間に認められるようになります(後にこの『出世景清』は、新浄瑠璃の初めとされるようになります)。そして、翌年34歳のときに「近松門左衛門」を名乗ります。「近松門左衛門」という名前の由来については、「近江の近松寺から取った」「肥前唐津の近松寺から取った」「祖父・父の通称名からつけた」「門前の小僧にすぎないという意味」などの様々な説があります。

近松はこの頃、歌舞伎にも手を染め、京都・都万太夫座に入って修業を行っています。その都万太夫座には初代・坂田藤十郎がおり、近松は藤十郎のために『仏母摩耶山開帳』(ぶつもまやさんかいちょう)を書き下ろします。1695年に藤十郎が都万太夫座の座本になった際には、近松は藤十郎専属の座付き作者として迎えられます。こうして約10年の間、近松は藤十郎のために約30編の歌舞伎作品を書き上げました。

1702年、近松50歳のときの『壬生秋の念仏』の上演を最後に、近松は歌舞伎作品から離れ、浄瑠璃の世界へと戻ります。そして、翌年、かの有名な世話物(庶民の出来事を扱った浄瑠璃)『曽根崎心中』を書き上げます。この浄瑠璃は、堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が露天神社(お初天神)の森で心中した事件を元にしたもので、人形浄瑠璃としては当時の事件を取り上げるというスタイルのものは、前例がありませんでした。近松は、心中事件後わずか20〜25日で台本を書き上げ、竹本座で『曽根崎心中』が上演されました。興行が始まると、作者・近松門左衛門、語り・竹本義太夫、三味線・竹沢権右衛門、人形遣い・辰松八郎兵衛という当時最高水準のキャストにささえられ、『曽根崎心中』は空前の大ヒットとなりました。

その後、近松は1715年(63歳)に『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』を発表。この浄瑠璃は17ヶ月もの長期興行となります。近松は時代物を中心に創作活動を続けますが、1724年、72歳で死去。3年後に発表された『今昔操年代記』では、「近松門左衛門は、作者の氏神也。」と最高の評価を受けています。

参考文献:『人物叢書・近松門左衛門』河竹繁俊・吉川弘文館、『研究ノート』廣田隼夫
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