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虚空蔵 法輪寺(こくうぞう ほうりんじ) | [正式名称] | 智福山 法輪寺 ちふくさん ほうりんじ |
![]() 法輪寺山門。 ![]() 法輪寺本堂。 ![]() 境内にある法輪寺針供養塔。 ![]() 法輪寺人形塚。 ![]() 電電宮。 | 葛野の歴史に深くかかわる古寺 嵯峨の虚空蔵さん 「虚空蔵 法輪寺」は、ご本尊「虚空蔵菩薩」が智恵と福徳、技芸上達の菩薩様として古来より篤く信仰されていることから、『嵯峨の虚空蔵さん』と親しまれています。今昔物語や枕草子にも記述があり、昔の成人式にあたる「十三まいり」の寺として往古から有名です。「虚空蔵菩薩」の智恵を授かりに、また厄難を払いに、特に春は同菩薩と縁の深い旧暦の3月13日(現在の4月13日)を中心に、参拝客で賑わいます。 「針供養」「漆祖神」のお寺としても信仰を集め、古い起源を持つ法輪寺。その歴史をご紹介します。 かつて嵯峨・嵐山の地は葛野(かどの・かづね・かづの)と呼ばれていました。寺の縁起によると、西暦300年ごろにはすでに現在の法輪寺寺域には、三光明星尊を祀った「葛野井宮(かずのいぐう)」という宮があったそうです。葛野は中国から渡来したといわれる工芸・技芸に秀でた秦氏一族が発展させた地域なのですが、その秦氏の先祖一族は、信仰していた「虚空蔵尊(こくぞうそん)」と深い因縁のある「葛野井宮」を尋ね求めてこの地にやってきたと伝わっています。 奈良時代の和銅6年(713年)、元明(げんみょう)天皇の勅願により行基に命じてこの寺域に堂塔が建てられました。その寺は「木上山葛井寺(もくじょうざんかづのいてら)」と呼ばれ、国家安穏、万民の繁栄と五穀豊穣、産業の興隆を祈る勅願所となりました。この葛井寺が現在の法輪寺の起源です。行基菩薩を開基とし、眞言宗(しんごんしゅう)に属しています。 承和年間(834〜847年)、弘法大師の高弟である道昌僧正(どうしょうそうしょう)が、勅願によって大堰川(おおいがわ)を修築し、橋を架け、船筏の便を開きました。その時架設された橋が、のちに法輪寺橋と呼ばれ、更に亀山上皇(1274〜1287年)がこの橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として、渡月橋と命名したのだそうです。 道昌僧正は、交通の便を開くとともに下流の荒れ野を田畑に開拓し、そのおかげで農産物が豊穣となり住民からは行基菩薩の再来と慕われました。また弘法大師のおしえによってこの葛井寺で修行をし、満願の日の暁天に生身の虚空菩薩を空中に感得し一木を彫り上げて虚空菩薩像を仕上げました。この木像は弘法大師自らの供養を経て、この葛井寺に安置しお祀りするようになったと伝えられています。その直後の貞観10年(868年)、寺名は「法輪寺」と改められました。 その後、応仁の乱の災禍を受け寺勢は衰退しましたが、御陽成天皇の再興勧進勅旨により、堂の再建改築が行われました(慶長11年-1607年に落慶法要)。その際に勅号「智福山」を賜り今日のように「智福山法輪寺」と呼ばれるようになりました。ところが江戸幕末の元治元年(1864年)、蛤御門の変の際に、寺の建物はことごとく灰となってしまいます。 現在の建物は、本堂が明治17年(1884年)の再建。客殿、玄関、回廊、庫裏、山門等順次竣工して大正3年(1914年)に往時の寺観を復興し、今日に至っています。
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