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| 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ) | [正式名称] | 等覚山 愛宕院 とうかくざん おたぎいん |
仁王門。
石像千二百羅漢の一部。
ご本尊「厄除千手観音像」が安置されている「本堂」(国指定重要文化財)。
ふれ愛観音。
三宝の鐘。 | 心を和ませる石像千二百羅漢 厄除けで有名な古寺 全国各地に「愛宕神社」があるために、『愛宕』と書けば普通『あたご』と読みますが、ここ「愛宕念仏寺」は『おたぎ』と読みます。ご住職の話によれば、『愛宕』とは、もともと山城国愛宕郡(やましろのくにおたぎごおり)という地名とのこと。『おたぎ』という読み方が正当なのだそうです。 寺の起こりは、奈良時代にさかのぼります。称徳天皇(764〜770)の開基により、山城国愛宕郡に愛宕寺(おたぎでら)として、現在の京都東山の地(松原通り弓矢町)に建立されました。そして平安朝の初めには真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、その頃に鴨川の洪水により堂宇が流失してしまいます。天台宗の僧「阿闍梨伝燈大法師千観内供(あじゃりでんとうだいほっしせんかんないぐ)」(918〜984)によって七堂伽藍の大寺として再建され、これより天台宗比叡山の末寺となり「等覚山 愛宕院」と号しました。 千観内供は中納言橘頼顕(たちばなよりあき)の子で、幼名は「千観丸」。両親は信仰の篤かった千手観音にあやかりこの名をつけました。また、『内供』とは、皇居に参内を許される僧位を指しています。12才で比叡山に登り運照(うんしょう)内供の弟子となり、顕密(けんみつ)の奥旨を修めました。生涯仏名を唱えて絶えることがなかったため「念仏上人」ともいわれたそうです。そのためこの寺も「愛宕念仏寺」と称するようになりました。 大正11年、堂宇の保全とあたご山との信仰的な関係から、3年をかけてこの地に移築され現在に至っています。 千観内供は再興の勅命を受けたとき、堂宇の建立に先立ち、まず本尊から造るべきだと考え、その本尊に女性33才の七難九厄といわれる大厄から守護してくれる法力を加えたいと、一刀三十三礼して千手観音を彫り上げたとされています。このご本尊は、今も厄除けの観音様として篤い信仰を集め、「厄除千手観音像」と呼ばれています。 地蔵堂には平安初期に造られた火除け地蔵菩薩座像が祀られています(火伏せの神として信仰されている「あたご山」の本地仏も地蔵菩薩)。また、子育ての守護神・鬼子母神「訶梨帝菩薩(かりていぼざつ)」像など、本堂にはご本尊の千手観音像のほかにも信仰を集める菩薩像が安置されています。 さて、現在の境内では一体一体ごとに個性のある表情豊かな羅漢の石像が、訪れる人の心を和ませます。これは、昭和56年に仁王門の解体復元修理を行った際に、寺門興隆を願って境内に羅漢の石像を充満させたいと発願したのが始まりだそうです。一体一体すべてが一般の参拝者自らの手によって彫られたもので、発願10年後には1,200体となり「千二百羅漢」と呼ぶようになりました(平成3年11月に「千二百羅漢落慶法要」が営まれた)。 前住職は、仏像彫刻家として有名な西村公朝さん。境内ではふれ愛観音や訶梨帝菩薩、石像お釈迦様などの石像や仏画が多数拝観できます。 また現在のご住職は布教活動の一環として作曲演奏活動を行っている西村公栄さん。恒例になった毎年4月第1日曜に催される「羅漢花祭り」での奉納演奏の他にも、寺内外で演奏活動をされています。ちなみに、毎年地蔵盆に付近で催される「愛宕古道街道灯し」で盆おどりが行われますが、その盆踊りの曲「嵯峨野径音頭(さがのみちおんど)」はご住職の作曲(作詞は瀬戸内寂聴さん)です。
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